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イタリア人夫婦が2012年にインド代理出産で得た子供の地位に関する判決文。依頼父の精子と提供卵子による子供だった。夫47歳、妻53歳。
裁判所は、子供の福祉を考慮し、依頼親による子供の養育を認めた。

判決文(2012年8月)
SENTENZA――nel procedimento n. 34/12 RG/ADS ex artt. 8 segg. L.184/83 per l’eventuale dichiarazione di adottabilità del minore

Fecondazione: Ucraina patria utero in affitto, pacchetti e sconti su web
[Adnkronos Salute, 2013/07/24]
代理出産のために海外に行くイタリア人が増えているという記事

他の代理出産関連のイタリアの判決文
・Corte d'Appello di Bari, sentenza 13 febbraio 2009 -In materia di riconoscimento di maternità "surrogata" (30.12.10)
http://www.minoriefamiglia.it/download/ca_bari_13022009.PDF

・Tribunale di Napoli sez. I, sentenza 1 luglio 2011
http://unipd-centrodirittiumani.it/public/docs/TribNapoli_010711.pdf


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by technology0405 | 2013-09-27 10:00 | Countries | Comments(0)

70歳と57歳のイタリア人夫婦に対し、裁判所が、現在2歳になるIVF児を育てるには高齢でしかも身勝手であると判断し、子供は養子に出されることになった。夫婦は生後1ヶ月の子供を40分間車内に放置するなど、適切な育児を行わなかったという。夜の10時に、泣いている子供を寝るまで車内に放置したなどの報告も近所からされている。

16ページに及ぶ判決の中で、裁判官は、高齢で子供を持つことを決めた夫婦を、利己的かつ自己陶酔的と評した。夫婦は過去に養子縁組の希望を2回申請したが、高齢を理由に却下されている。
「夫婦は、娘が大きくなる前に自分たちが亡くなるだろうという事実も、それ以前に、両親の助けを最も必要とする10代後半に年老いた両親の世話をしなくてはならなくなるということも、全く考えなかった。」と裁判官は裁定した。夫婦は「子供が欲しいという自己陶酔的な欲望」に駆られ、「子供の将来に関しては無関心」だった。娘は「遺伝技術の進歩がもたらす素晴らしい可能性の歪んだ適用の結果」であると裁判官は述べた。

夫婦はこの判断を不服とし、最高裁で争う予定。「高齢であるという理由だけで子供を取り上げられ、彼女に会うことも許されない。」と父親は立腹する。この裁判をきっかけに、イタリア国内では超高齢出産の是非についての議論が起こっている。

IVF toddler to be put up for adoption because of 'narcissistic' parents
By Nick Squires
[The Telegraph 25 Oct 2012]

Italian parents too old and selfish to look after child
By Nick Squires
[The Telegraph 16 Sep 2011]

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by technology0405 | 2012-12-13 16:57 | Countries | Comments(0)

世界には生命倫理学について二つの流れが存在する。個人主義的生命倫理と、人格主義的生命倫理である。前者は、日本や英米圏の生命倫理学の世界を席巻しているものであり、生命倫理学といえば通常は個人主義的生命倫理のことを指す。後者は、バチカンが主導して発展させてきたもので、その存在や考えは日本でもほとんど知られていない。

我々に馴染みがある個人主義的生命倫理とは、個人の自由、自己決定権、幸福追求権を最高原理とするもので、アメリカ合衆国建国の思想にルーツを持ち、歴史的にみればごく最近に現れてきた考えであり、著者によれば「特殊なもの」である。

個人主義生命倫理は、公権力を排除し、個人の自由を尊重するもので、政治理念としては良い面あるが、生命倫理の原理としては不都合な面がある。つまり、この考えを突き詰めると、個人の権利同士が衝突した場合、常に強者の権利が優先され、弱者の権利や保護がないがしろにされてしまう。

一方、個人主義的生命倫理と対照的な原理に基づく人格主義的生命倫理は、存在それ自体に価値があるとする存在論を哲学的基盤とし、人間の尊厳(dignity)を最高原理としている。

人格主義的生命倫理を掲げるバチカンが、最も手厚い保護が必要な弱者とみなしているのが「受精卵=胚」である。なぜ受精卵が保護に値するかといえば、「受精した瞬間から人である」(受精卵=人)という教説があるからである。数ある弱者の中でも、バチカンが胚を特別な保護が必要であると考える理由は、受精卵は自己決定できないからである。この教説は、受精の仕組みの解明など急速に進む近代科学の進歩がもたらした知見に裏付けられたものである。
歴史的にみれば、受精卵=人は「中絶に関する宣言」(教理省1974)で初めて示された、カトリックでも比較的新しい考え方である (因みにこれは、中絶を女性のプライヴァシーの権利として認めた合衆国のロウ判決(1973)に対するバチカンの反対声明として示されたというのが通説となっている)。


「受精した瞬間から人である」という考えの「いいところ」は、非常にわかりやすいことである。この教説をもちいれば、ES細胞やクローン胚、着床前診断、中絶の是非など、生命の始まりをめぐる生命倫理問題に対して、明快な回答を与えることができる。

しかし、日頃、ヌエ的・状況主義的な日本の生命倫理に馴染んできた者からすれば、何故そこまで受精卵に拘るのか、正直理解し難い面がある。

人格主義的生命倫理、いいかえれば「受精卵=人」は、別の見方をすれば、「真理」をめぐるバチカンの政治学としてみることもできるかもしれない。聖書にあるアダムとイブの創造論がダーウィンの進化論によって信憑性を失ったいま(今でも創造論を信じている人はもちろんいる)、世界の始まりではないが、人の始まりをめぐる真理として新たに持ち出されたのが、近代科学の装いを凝らした「受精卵=人」教説であったのかもしれない。

再生医学研究に莫大な研究費が投じられることで、熾烈な研究開発競争が繰り広げられ、様々な利権をめぐって世界がその研究動向に注目するなか、「受精卵=人」教説にもとづいて胚の利用を断固として否定するバチカンは、真理の擁護者として、その独自性と存在感とを人々に対して示すことができる。

しかし現実の問題はそう簡単なものではないだろう。第一、そのような単純な原理で全てを片付けようとすれば別の弱者への人権侵害が生じてしまうかもしれない。

弱者保護ということなら、受精卵の保護以外にも、それと同じ熱心さで取り組んで欲しい事柄は他にもっとある気がする (それらについてバチカンが熱心に取り組んでいる可能性を否定しない。単純に知らないだけのだが)

また、カトリックといえば、女性は司祭になれない、司祭は女性との交わりを避け生涯独身を貫かなければならないなど、女性の存在を徹底的に排除している。つまり、バチカンは高度に男性中心の世界である。そのような特殊な世界に住む人間が考えることは、人間のあらゆる思考がそうである程度に、どこかにバイアスが含まれているのではないか。

とはいえ、日本でカトリックの人格主義的生命倫理を紹介・解説できるのは著者くらいしかいないから、これは、それを知ることができる限られた書であるし、日頃馴染んでいる個人主義的生命倫理や"状況主義的生命倫理観"を相対化するのに良いといえる。


「イタリアとカトリックの生殖補助医療をめぐる倫理問題」(秋葉悦子講演)


人の始まりをめぐる真理の考察

秋葉 悦子 / 毎日新聞社




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by technology0405 | 2010-09-05 17:15 | Book | Comments(0)
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